ウラジオストクの歴史
NHKのロシア語ラジオ講座の入門編でもウラジオストクがその舞台になっています。
今月号(2020年1月号)で知ったことをまとめてみました。
💢 ウラジオストクの始まり
Владивосток(ウラジオストク)という単語は二つの部分に分解できます。
влади と восток です。
влади は владеть(支配する、所有するの意味)の命令形で、「支配せよ!」の意味
восток は 「東」の意味。
したがって、
Владивосток は「東方を支配せよ」という意味になります。
実際、ウラジオストクの町の歴史は1860年に始まります。
ロシア海軍の輸送船が金閣湾に接岸して、水兵たちが集落を築いたのがその始まりです。
ところで、
支配するという意味がある「ウラジ」のつく都市がロシアにはもう一か所あります。
それが、「ウラジカフカス」
これは現在、ロシア連邦内の北オセチア・アラニア共和国の首都となっています。
こちらも19世紀にはロシア領となっているようです。
「ウラジ」はロシア帝国拡張の歴史とつながっているようですね。
さて、
1860年にできたウラジオストクですが、
1871年にはここがロシア艦隊の拠点となります。
同年、ウラジオストクと長崎の間に海底電線が敷かれました。
現在ではウラジオストク港は冬でも凍結しませんが、当時は凍結していました。
そこで、長崎がロシア艦隊の越冬地となりました。
多くのお金を落としてくれるロシア艦隊に対しては長崎の住民たちは好意的だったようです。
現在でも長崎港の対岸の稲佐村にはロシアの史跡が残っているようです。
1876年 ウラジオストクに日本貿易事務館が創設されます。
1891年 シベリア鉄道の建設が始まる。(全線開通は日露戦争中の1904年)
1899年 東洋学院が創立されます。(これが現在の極東連邦大学の前身です。)
日本語学科もあって実践的な教育が行われていたようです。
そのためこの大学出身者はまもなく始まる日露戦争(1904~1905)に従軍したようです。
1902年 ウラジオストクの日本人居住者は約3000人に増える。
(最高時には6000人の日本人がウラジオストクに住んでいたようです。)
1904~1905 日露戦争
1906年 ウラジオストクと福井県敦賀の間に週2便の定期船が就航します。
1912年5月 与謝野晶子がヨーロッパをめざし敦賀港から出発
与謝野晶子の歌「我が泣けば露西亜乙女来て肩なでぬアリヨル号の白き船室」
現在、極東連邦大学の敷地内には与謝野晶子の記念碑があるとのこと。
これもぜひとも見てみたいものです。
記念碑に刻まれている歌がこれ。
「いざ、天の日は我がために 金の車をきしらせよ」
パリにいる夫、与謝野鉄幹のもとへ向かおうとする晶子の情熱的な歌です。
当時は、シベリア鉄道が日本からヨーロッパへの最短ルートだったんですね。
現在では、ウラジオストクからモスクワまで6泊7日で行けるようです。
🚄 シベリア鉄道
Транссибирская железнодорожная магистраль
ウラジオストクからモスクワまでの距離は9288キロ
それを示す記念碑がウラジオストク駅のホームに立っているらしいですね。
「偉大なるシベリア横断鉄道はここに終わる、モスクワからの距離9288キロメートル」
と書かれているみたいです。
現地に行って、ぜひとも、そのロシア語を確認してみたいと思ってます。
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